もくじ
お金が無いのが当たり前だった私と母
物心がついた頃から我が家はとても貧乏だった。
いや、正確には最初はそれなりに裕福な家庭に産まれた。
私が生まれた時、父は100人規模の地元ではそれなりに有名な会社を経営していた。
幼かった私は全く記憶はないが、夏休みには一家で海外にも行ったことがあるようだ。
だが、ある日、突然状況は一変した。
幼かった私も、その日のことは今もまだ鮮明に覚えている。
ある日、突然、母親が見た事ない大声で泣き叫びながら私たち兄弟を抱きしめた。
父親は母親の後ろでただ、立ち尽くしていた。
父の会社は当時数億円の借金を抱えていおり、いよいよ返済ができずに不渡りを出してしまったようだった。
個人の自宅や車も担保に入れており、個人での借金までしていた。
具体的な金額は聞いていないが、銀行や消費者金融、カードローンなど借りられるお金はすべて借り、個人での借金も数千万円から数億円規模だったようだ。
お金が無くなり庭つき一戸建てから2DKのアパートへ
一ヶ月後、私たちの住まいは7LDKはあった庭つき一軒家から築45年のアパート2DKに変わった。
引っ越しもした。周りには畑しかないような田舎町だ。
しかし、こんな田舎町でも情報というものは回るものらしく、私にとっての、めざまし時計は債権者からの罵声だった。
どうやら闇金融からもお金を借りてしまっていたらしい。彼らは銀行や消費者金融と違い非道な事を平気でやってくる。
ドラマだけの話だと思っていたが、人権なんてものは関係がない。家から外出する。という人間であれば当たり前の行動さえも制限される生活が続いた。
しかし、無い袖は振れないわけで、数ヶ月経つと彼らはいなくなった。
そして、さらにその数ヶ月後、父もいなくなった。
そう、父は自分で人生を終わらすことを選んだのだ。
思い返せば父は弱い人だった。
確かに100人規模の社員を抱えたこともある人だったが、いつも家で悩んでばっかりいたし、辛くなると子供の私たちが話しかけても相手にもしてもらえなかった。
父親とキャッチボールをしたり2人で出かけた。という思い出は私にはない。
そんな父が選んだ道は、自らの死だった。
その日から私たち家族にはまた地獄のような日々が始まった。
女手1つで家族を育てるという事の現実
欲しいものは買えないし友達のおもちゃが羨ましい。
有名なお笑いタレントが作詞した曲に、本当は七面鳥が食べたいけれど、親に気を使ってチキンライス。という歌があるが私の場合もまさにそんな感じだった。
何かを買うにしても常に一番下にあるものを求めるようにしていたし、お金のことでなるべくお母さんを苦しめたくない。という思いが幼いながらにもあった。
そんな私が小学校に上がる時に使ったランドセルは、隣の家に住むお兄ちゃんが15年前に使っていたものだ。
ランドセルを私に渡す時、母親は本当に申し訳なさそうに私に謝った。
また、せめても。という思いからなのだろうか、当時流行っていた人気アニメのワッペンをどこからか買ってきてランドセルにつけてくれた。
お世辞にもかっこいいといえないその人気アニメのワッペンがついたランドセルを背負って私は毎日学校に行った。
母親は毎年ワッペンを変えてくれた。正直、ワッペンを買う2,300円だって母にとっては厳しかっただろう。
また、ランドセルは思っているよりも硬い。そんなランドセルに夜中、手作業でワッペンを塗っている姿は今も忘れられない。
友達は革製のピカピカのランドセルを背負っているが、私は何の素材で作られているかも分からないボロボロのランドセル。
よく、ボロランドとかゴミドセルとか、バカにされたが、そのランドセルは私にとっては本当に宝物だった。
よくケンカもした。
古いランドセルを馬鹿にされるのはいいが、お母さんがつけてくれたワッペンを馬鹿にされるのだけは許せなかった。
そのランドセルは今でも我が家で、私たち家族を見守ってくれている。
母は毎日、朝遅くから働き、夜は警備の仕事をいれ1日16-18時間は働いていたと思う。
私たち兄弟もまた、お母さんに苦労をさせたくなかったので、わがままを言わず、兄弟だけで過ごすことが多かった。
そのまま中学校2年まで貧乏生活を続けながらも平和に生きていた。
そんな時に事件は起こった。
弟が急性の病気にかかり入院したのだ。
弟の死、母の決意
それから弟が父の元に行くまでに長い時間はかからなかった。
弟は死んだ。
弟が死んだ。
弟が父の元に行ってしまった。
母はずっと働いていたので、弟と長い間一緒にいた私にとって本当に信じられない出来事だった。
人間、ショックを通り過ぎると涙も出なくなるようで、私は弟が死んだ時一滴も涙を流していない。
ただ、抜け殻のようになっていた。
そんな私の横で母親は会社が倒産した時よりも、父が亡くなった時よりも、さらに大声を出して声を枯らして泣き叫んでいた。
ごめんね。ごめんね。を連呼していた。
私がもっとちゃんと治療をさせられたら。
高い薬を飲ませてあげられたら。
助かったのに。
そんなことを言っていたのだと思う。
たしかに、弟はお金の問題で受けたい治療を受けられなかった。
だが、高いお金を払ってその治療を受けていたとしても、数ヶ月一緒に居られる時間が延びただけで、弟の運命は変わってはいなかっただろう。
しかし母親は自分を責めた。
その日から私は母親が、私が就職をするまでの間で仕事を1日も休んでいる姿を見ていない。
母だって女だ。自分の母親だからというわけではないが、見た目だってそんなに悪くはない。
当時まだ40代になったばかりだったから、新しい恋や友達との食事や、おしゃれだってしたかっただろう。
同級会や友人の結婚式にもいつも欠席の欄にマルをつけていた。
私も勉強をしまくった。高校では朝牛乳配達をし、夜は土木作業のアルバイトをした。
お金だけでひとは幸せにはなれるとは思わないが、無いとしたいこともできないのは事実だ。
将来お金持ちに。いや普通の生活を手に入れて、母親に楽をさせることだけが当時の私のモチベーションだった。
そんなモチベーションが功を奏したのか猛勉強の結果、私は運良く、地元にある国立大学の経済学部に合格をすることができた。
入学金や引越し代金、授業料のことを考えると地元の国立大学しか私には道がなかった。
その大学入学にかかるお金は高校3年間のアルバイトでなんとか自分で用意をすることができた。
母から手渡されたボロボロの封筒
入学書類を整理していよいよ提出に行こうとした時、母親がボロボロになった封筒を私に渡した。
中には大学の入学金と授業料がぴったり入っていた。
母は苦しい貧乏生活の中から毎月数万円ほど、私が大学に入学する時にむけてお金を貯めていてくれた。
封筒にはマジックペンでその月に貯めたであろう金額が毎月びっしりと記してあった。
涙が出た。
服だって10年間ずっと同じ黒色のニットをいつも着ていた。
髪の毛だって自分で切ったほうが楽だから。と毎月自分で散髪していた。
私には炊きたてのご飯をくれても、自分は昨日の残りご飯を温めて食べていた。
そんな小さな小さな積み重ねで、このお金を作ってくれたのだ。
一度はそのお金をもらうことを断った。
だが母は私にこう言った。
そのお金はまーちゃんが頑張って貯めたお金だから本当に必要になった時に使って。この入学金と授業料を払いたくて働いてきたから払わせて。
だけどごめん。これで本当にうちにお金はないから・・・。
そんな母親の言葉を断る理由はなかった。
私は大学でも勉強を続け、アルバイトもした。
そして全国に支店を構える有名ブラック企業に就職した。
お金が無かった私たちにやっと訪れた当たり前の幸せ
そこでも私は死ぬ気で働いた。
休日も関係なしに働いていた母を見ていた私にとっては毎日働く事も全く苦痛でもなかった。
また、当時、フルコミット制になっていたので頑張れば頑張った分自分に帰ってきた。
そして気がついたら私は27歳のとき、自分の会社を始めていた。
そこからは家庭も持ちそれなりの幸せも手に入れた。
お金だって金持ちというほどではないが、好きな時に好きなものを食べて、好きな場所に行けるくらいの余裕はできた。
私は結婚をし、母も一緒に暮らし始めた。
そして、母はやっと仕事を辞めた。
ただ、働くのが癖になっているのか、近所の掃除や交通安全などボランティア的なことはしていた。
もともと明るい人だろうか、なれないその環境の中でも友達もいっぱいできた。
私はそんな母が楽しそうに生活をする姿を見ていられるのが本当にうれしかった。
そんな母が倒れたのは一緒に暮らし始めてから1年がたった時のことだ。
母の病気。またお金が私たちを苦しめる
ある日、妻から一本の電話が入った。
母親が倒れた。
慌てて病院に行くと母には何本ものチューブにつながられ寝ていた。
生きていてくれた事に安堵をしているまもなく、先生に呼ばれ話を聞いた。
どうやら母は難病らかった。
今まで頑張りすぎてきたツケがたまったのだろうか。
長くても1年。このままいけば半年は生きられないだろうと言われた。
ただし、アメリカで認可されている治療を行えば治る可能性がある。
だが費用は・・・。
またお金か。
いつだってお金が私たち家族を苦しめる。
いや、生きている限り、私たちは常にお金と向き合って生きていかなければならないのかもしれない。
私は先生に言った。
いくらお金がかかってもいいから絶対に治してください。
母にはそのことは言わなかった。言ってしまったら絶対に断るからだ。
具体的な金額は言わないが、母の治療にかかった費用は数千万円だ。
当然そんなお金用意できるはずがないので、消費者金融から銀行、取引先の社長から知人、闇金以外、借りられるお金はすべて借りた。
後先のことなんてどうでも良かった。
お金が理由で母親を助けられない。こんなことになっては私の今までの人生はなんだったのか。と思ってしまう。
なによりも母に少しでも生きていて欲しかった。一緒にいたかった。
そして、母と私は家族を日本に残し2人で一緒にアメリカに渡った。
母には、全部保険でできるから日本で治療するのと金銭的にも変わらないから安心して。と説明していた。
その治療の甲斐もあって、母親は見事に何秒からの復活を果たした。
私は母親の治療費を返すために必死で働いた。
今度は私が働く番だ。
お金が無い私と母は本当に幸せでした
結局、母親の治療で作った借金は10年程で全額完済した。
そしてさらに10年後、自宅の近くの病院で母は私と妻に看取られ、弟と父の元へと旅立った。
母のその顔は苦しそうでもなく、憔悴しきった顔でもなく本当に健やかだった。
ガンや昔の病気の後遺症などでもなく、完全に寿命による死だったようだ。
70年間全力で生き抜いた彼女の人生はその日に終わった。
そんな母を私たちもまた笑顔で見送った。
2日後、火葬場で母と最後のお別れをした時、妻に一通の手紙を渡された。
まーちゃんへ
この手紙を読んでいるということはお母さんはもう智やお父さんのところへ行っているということですね。
思い返せばお母さんの人生は本当にいい人生でした。
1番はね、まーちゃんとゆみちゃん、ちーくん一緒に暮らせたこと。
ゆみちゃんは本当にいい奥さんだし大切にしてくださいね。
ちーくんもまーちゃんに似て頑張り屋さんだし、肩ももんでくれたりで自慢の優しい孫です。
お母さん、たまに思うんだけどまーちゃんはお母さんの子供に産まれなかったら幸せだったと思うの。
お金のことではまーちゃんに本当に苦労をかけましたね。
欲しいおもちゃも買ってあげられなくて、ランドセルだってお兄ちゃんのおさがりだったし本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
それなのにまーちゃんはいつだってお母さんのことを大切にしてくれて。これじゃあどっちが親かわからないね。
実はお母さん、まーちゃんに謝らなければならないことがあります。
お母さん昔病気したでしょ。
その時お母さんまーちゃんに外国に連れて行ってもらって治してもらったけど、すごい高い手術代がかかったんでしょ?
お母さんこの治療にはすごく高いお金がかかるってこと知っていました。
だけどもっとまーちゃんたちと一緒にいたかった。
やっと、ずっとしたかった生活が始まって、もっと、もうちょっとだけまーちゃんと一緒にいたかかった。
わがままだけど、まーちゃんと一緒に生きていたかった。
だから高いお金がかかるって知ってたのに外国に行くことに賛成をしてしまいました。
本当にごめんなさい。
お母さんのせいでまーちゃんずっと仕事していたもんね。
あれってお母さんの治療費を頑張ってくれてたんだよね。
今、この手紙を書いていて、お母さんは本当に幸せ者だなって思います。
最後まで生きられて本当に幸せでした。お母さんの子供に生まれてきてくれてありがとう。
また生まれ変わってもお母さんの子供に生まれてきてね。
お母さんより
お金が無い。これは本当に悪いことなのだろうか。
人はお金で幸せになれるとは思わないが、いつだって状況は自分次第で変えられる。
山あり谷ありだったが、私の人生も母の人生も本当に良い人生だった。
手紙を読み終え、その後ろで灰色の煙が、母をのせて天国へとのぼっていった。
生まれ変わってもお母さんの子供に生まれたいのは私も一緒だ。